ムゲン・スペース・メモランダム

一度ファンになると、一生付き合っていくのが私のファン流儀。言い換えれば、そういう人しかファンにならない。私の世界はムゲン・スペース。夢中になれるって、しあわせ。

フィルムセンター  映画監督マキノ雅広

 しゃおがんさんのブログを読んで、東京のフィルム・センターで「生誕百年 映画監督マキノ雅広」と称して彼の映画を上映中だと知った。今年から始まって今月で終わってしまうから、到底、何も見ることはできない。そういえば、監督は2月29日生まれだった。
 私は一度だけ監督にお会いしたことがある。正確には、純子さんに監督のお宅へ連れて行ってもらったのだった。そのとき、どういういきさつかは知らないが、純子さんは健さんも呼んでいた。さりげない「お見舞い」の意味があったのだろう。途中の道で待ち合わせをして、二台の車でお宅へ伺った。
 監督はベッドに寝ていてテレビを見ていたが、健さんや純子さんを見て、起き上がってベッドにすわった。監督のどこが悪かったのか思い出せない。いや、むしろ、お元気そうだった。早速、むかし撮った映画の話になって、私は健さんと純子さんに挟まれてそれを聞いていた。詳しい話はほとんど忘れてしまったが、健さんと純子さんが共演した『侠骨一代』の話になって、健さんが「あぁ、もういっぺん見たいなぁ」と言ったので、私が「ビデオが出ていますよ」と口を挟んだことを覚えている。(この日はプライベートのことだからテープに録音することは禁じられていた)
 「すぐ失礼します」と言った健さんだったが、ずっと、最後までいた。帰りがけに、私は密かに写真くらいは撮りたいけど無理だろうなぁ、と思っていたら、監督の奥さんが「写真を撮らなくちゃ」と言い、「そんなもの、いらい、いらない」とう純子さんに対して、健さんの「撮りましょう」という一言で記念写真を撮った。結果的に、奥さんの写真は失敗したそうで、私が撮った写真を送った。しかし、その写真が監督の自伝「映画渡世」の文庫版に使われているなんて夢にも思わなかった。あのー、あの写真の著作権は私にあるんですけどぉ…。
 監督のお葬式がある前日に、たまたま私は東京へ着いた。知人が駅の通りに張り紙があるから、それにそっていけばお葬式に会場に着くよ、というので出かけて行った。その通りだった。その後、キネマ旬報の追悼対談が監督のお宅であるというので、私は純子さんのお供をした。純子さんは監督が好きな黄色のバラの花束を用意していて、私がそれを持った。ン?アニタ(梅艶芳)も黄色のバラが好きなんだよね。
 監督の作品では、『昭和残侠伝 死んで貰います』が”オノロケ・オン・パレード”(確か伊藤勝男さんがそう書いた)で、好きかも。でも『日本侠客伝 血闘神田祭り』も好き。監督作としては『侠客伝』シリーズのほうが傑作なのかもしれない。
追記:因みに、私は健さんとはLAで『ブラック・レイン』と『ミスター・ベースボ−ル』のときにグループ・インタビューの他にワン・オン・ワンのインタビューもしたことがあり、このときはすでに顔見知りであった。
 
  1. 2008/03/09(日) 16:43:39|
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ジョディ・フォスター

 ここ2,3日、ジョディ・フォスターのカミング・アウトのことが話題になっている。偉そうなことを言うと、彼女がゲイだというのはずっと昔から知っていた。私がよくインタビューの仕事をしていた80年代の終わりから90年代にかけて、どういうわけか映画会社のパブリシスト(広報係)にゲイが多かった。そのせいでだったか経緯は定かではないが、彼女がゲイだと教えられた。あぁ、そうなのか、と思っただけだった。私のまわりにはゲイが普通にいたからだし、私が住んでいるウェスト・ハリウッドは「ゲイの町」として知られている。アパートの住人にもゲイのカップルがいる。男同士でも女同士でも、全然こだわりがない。
 ジョディは今まで、一度も自分のセクシャリティについて話したことがなかった。ものすごく頭の良い人で、彼女の話す言葉にはそれまで聞いたこともない難しい単語が良く入っていた。この人の通訳は大変だろうなぁと思った。一度、戸田さんに聞いたことがあって「ジョディの通訳は頭が痛くなるときがあるわ」と言われた。戸田さんのようなベテランでもそうなのかぁ、と納得した覚えがある。

 先日、映画のプレスキットを整理していて、『フック』が出てきた。あぁ、この映画のインタビューのとき、私はなんとダスティン・ホフマンにナンパされたんだっけ、と思い出した。彼には「ダンス好き?今夜、ボクと踊らない?」と言われたのだ。私は耳を疑って「エッ、今なんていったの?」ととぼけたら、「聞こえたはずだよ」だって。そこに彼のパブリシストが来たので、彼は「気にしなくていいよ」と言って立ち去ったのだ。そのことを友だちに話すと、「へぇー、ちょっとあなたとダスティンって想像できない」と言われた。が、「ナンパといえば、○○さんはジョン・マルコビッチからじきじきにデートのお誘い電話がかかってきたんですって」とも話してくれた。ダスティンがどういうつもりだったのか知らないが、そういうことがある、ということは友だちも認めていた。最近、この話をムシ返したら、その友だちは「ウーン、ダンスはダンスでも、彼の目的はベッドの上のダンスだったみたいね」と言われた。あれ、私は初めっからそういう意味だと思っていたんだけど・・・。

 『ブラック・レイン』のときはマイケル・ダグラスにインタビューしていて、何かの拍子に「ケン・タカクラにインタビューしたか?」と聞かれ、「彼がこのホテルにいるのは知っているが、日本で記者会見があるから、ここ(LA)では日本人のインタビューはしない、とパブリシストに言われた」と答えた。すると、その夜、パブリシストから電話がかかってきて、「明日、ケン・タカクラとインタビューできるよ」と言われた。健さんにこのことを聞くと「マイケルが日本人のジャーナリストで映画に詳しい人がいるから、是非、インタビューを受けるべきだといわれたんですよ」と言うことだった。へぇー、マイケルっていい人じゃん、と思った。

 インタビューのときのエピソードって結構面白いものがあって、しばし、その話で友だちと盛り上がった。そこで出た結論は、スターも人の子、だった。



  1. 2007/12/15(土) 17:26:17|
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「スクリーン」の古本 1

 一日一個でも荷物の整理をしようと、シンダーブロックに板を渡しただけの本棚に収めた箱を開けてみた。現在住んでいる部屋に越してきてから一度も開けたことがない。とっくに捨てたと思っていた映画雑誌「スクリーン」が入っていて驚いた。87年から90年までの49冊。中も見ずに87年と88年の分を捨てた。で、ふと89年のある号をパラパラと見たら、成龍(ジャッキー・チェン)や葉蘊儀(グロリア・イップ)のカラー・グラビアが載っているではないか。知らなかった、というか、全く認識していなかった。
 私は「スクリ−ン」誌に86年ごろから書き始め、87-92年ごろはほぼ毎月書いていたはずだ。一ヶ月にいくつも記事を書かなければならないときは適当な英語名を使って書き分けた。ほとんどがインタビュー記事で、あの頃はジャンケット(スターと記者をホテルに缶詰にして朝からインタビューをする事を指す業界用語。インタビューはテレビと新聞・雑誌の印刷媒体に大きく分かれ、さらに、アメリカ国内媒体、海外媒体に区別される)はロサンゼルスで行われるとは限らず、サンフランシスコ、ニューコーク、シカゴ、シアトル、オーランド、ヒューストンなどへ行ったりした。ジャンケットは週末にかけて行うのが常だったから、毎月のようにどこかへ行っていた。でも、飛行場からホテルへ行って、試写をみてインタビューを終えて帰ってくるという週末だったのだ。90年ごろからライバル誌の「ロードショー」がジャンケットに関わるようになって、一国一誌の場合は「ロードショー」に取れることが多くなったが。
 当時は、ほとんどの印刷媒体のインタビューは5,6人の記者によるグループで、30-45分の持ち時間だった。運がよければ、一対一(ワン・オン・ワン)のインタビューができた。国内と海外の配給権が違ったりすると海外だけのインタビュー日程が組まれるときもある。
 それが、10年くらい前から、グループは10人前後になり、持ち時間は15ー20分になってしまった。これでは、ほとんど何も聞けないことになる。勢い、先を争って質問をすることになる。質問の答えを真剣に聞いていては遅れをとってしまうから、とにかく、いつ話しに割り込もうかと虎視眈々。これでは、インタビューとは言えない。早い者勝ちなのだ。
 インタビューはホテルの会議室や、個室からベッドを取り除いて、テーブルを設置して行われるか、あるいは宴会場にいくつもテーブルをおいて行われるときもある。ラウンド・ロビンと言って、インタビューされる側が、テーブルを次々に回っているのが普通だった。
 そういう仕事から遠ざかって久しい。初めは手書き原稿を郵送していたが、急ぎのときはOCSというところを使っていた。2日で届くのだが、空港の近くまでもっていかなくてはならない。そのうちに、日本でファックスが普及して、アメリカではバカ高いファックスを買わなければならなかった。そして、ワープロ書きになり、コンピュータになった。
 イヤー、ちょっと懐かしかった。 
  1. 2007/09/07(金) 15:36:57|
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久しぶりに見た『プリンセス・ブライド・ストーリー』

 最近、DVDのメール・レンタル、NETFLIXを利用しているのだが、久しぶりにロス・ライナー監督の『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987年)を見た。先日、友人と会って話していたときにこの映画の話になった。あれは大好きなラブ・ストーリーベスト10の中に入る作品と思い、DVDをレンタルした。1987年の作品だからみんな若いし、主演の二人(ロビン・ライトとケリー・エルウェス)は美しい。本編、監督と原作者のウィリアム・ゴールドマンのそれぞれのコメンタリーも見てしまった。この映画はあまりヒットしなくて、ビデオ化されてから見直された作品なのだ。でも、私は試写を見たときから大好きだった。
 2,3年後に主演のケリーに取材したときにこの映画がいかに好きかを話したような記憶がある。サインをください、と頼んだらイラストまで描いてくれた。そういえばジャック・ニコルソンもイラストつきサインをくれたなぁ。
 で、この際だからメロドラマの王道、『ローマの休日』(1953年)もかりた。もう何年も見ていなかったので、こんなシーンがあったのか、と新作を見るような感じだった。オードリーにも一度だけ会ったことがある。晩年、NHKのBS放送用にインタビューしたときに、それに立ち会ったのだ。スタッフの一人だったからほとんど見ているだけだったが、その夜だったか、ロサンゼルス日本領事館の総領事の私邸でユニセフ関係のパーティがあって、それを取材したのだ。あのときは何も用意をしていなくて、とっさにメモ帳にサインをもらったような気がする。
 ジャーナリストはサインだの取材先のおみやげなどをもらうべきではないのだが、私はジャーナリストなんかじゃないもん、と居直って、スターからサインを貰っていた。職権乱用と言うよりも、全くの恥知らず、だ。ミーハーなんだからしょうがないじゃーーーん。

 
  1. 2007/08/29(水) 12:24:01|
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金像奨

 私が初めて香港映画界のアカデミー賞ともいえる「香港電影金像奨」の授賞式に行ったのは1995年だった。このときは梅艶芳(アニタ・ムイ)は出席しなかったと記憶する。たしか、まだ、香港コロシアムでのコンサートを開催中だったはずだ。
 昨夜、香港では第26回香港電影金像奨の授賞式があった。結果はサイド・バーにあるもにかるさんのブログや香港映画界に詳しい方々のブログを参照したいただきたい。私は、もう、すっかり金像奨への興味を失ったので、記念のパンフレットさえ買い忘れて日本へ来てしまった。

 私は、95年、97から2002年、2004から2005年の金像奨へ行っているが、初めのころは授賞式語の祝賀パーティーのときにスターに近づけて、インタビューができたし、連絡先を聞き出したて後日改めてインタビューをする、なんていうことも可能だった。それが、2000年ごろから厳しくなって、祝賀パーティーの会場内へは入れなくなった。そのころから、「おいしく」なくなった金像奨には興味が薄れてきた気がする。ホントにミーハー丸出しだった。いや、今でもミーハーだけど、当時は香港のスターや映画人に接近するチャンスだ!とばかりはりきっていたのだ。いろんなスターのサインを貰ったのもこのころだった。
  1. 2007/04/16(月) 15:01:38|
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僭越ですが・・・

 9月の第一月曜日はレイバー・デイという休日。その翌日の今日から公共の学校の新学期が始まった。テレビの新番組も9月から始まるといったぐあいに、アメリカは9月が年度替りだ。
 20年以上も前の今頃、妹の病名を知った。末期がんで余命2ヶ月。幸いにも、通っていたUCALはクォーター制(四学期制)だったので、新学期は10月だった。一学期だけなら休学が許されるとわかって、急いで札幌へ帰った。東京に住んでいた妹だが、治療のために札幌へ移動させたのだ。私はほとんど妹に付き添っていて病室に寝泊りしていた。がんは容赦なく妹の体内を蝕んでいった。宣告された2ヶ月が過ぎて、年が明け、UCLAの冬の学期が始まったので私はLAに戻らなければならなかった。それから、丁度、一ヵ月後に妹は帰らぬ人となった。もしものときは延命措置をしないでほしいと、母に伝えてあった。どんなに急いでも、LAから札幌へ着くのに2日間はかかる。機械で生かされていても妹は話すことができないのだから、早く苦痛から開放してあげるべきだと思ったのだ。
 私はがん治療の当事者ではないが、それがどういうものであるのかつぶさに見てきた。だから、梅艶芳(アニタ・ムイ)が2003年の秋にどのような治療を受けたのか想像がつく。そういう治療を受けた人が、衣装をつけて高いヒールの靴を履いてステージを歩くなんて、信じられない。その上、歌を何曲も歌ってしまうなんて、人間業とは思えない。コンサートを8日間も開くなんて神業としか思えない。
 アニタは「できる、と自信を持つ意志力だ」という。この意志力で数々の困難を乗り切ってきた。アニタ・ムイは超人なのだ。
 同じ年回りだし、誕生日も3日間しか違わない「てんびん座」。火星のマイナス。ほんのちょっとだけ、アニタの心が分かる気がする。
  1. 2006/09/06(水) 09:17:36|
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疎外感

 自分がクラスメートと違う、というか、まわりから違う目で見られているというのは、敏感に感じるものだ。私は「よそ者」の上に、股間節が悪かったので過激な運動はできなかった。体育の時間は、本来ならば見学しなければいけなかったのだが、親に隠れてできる範囲で一緒にやっていた。さすがに運動会は見学していたが、遠足もなるべく行くようにしていた。同じ行動をとれないことは「差別」につながるのだ。
 梅艶芳(アニタ・ムイ)は人前で歌ってお金を得る生活をしていたので、クラスメートから(彼らの親たちの入れ知恵があって)「モンスター」と思われていた。だから、彼女は一緒に遊んでもらえなかったのではなくて、避けられていた。私も、グループで楽しそうにしているところに近づくと、話題を変えられたり、これ見よがしに仲の良さを見せ付けられたりした。一番ショックだったのは、テスト前に風邪かなにかで休んでいて、わざと違うテストの範囲を教えられたことだった。
 サバイバルの方法は、全てに無感覚になることだ。差別されていると意識するから傷つく。気がつかなければ、どうということはない。何事にも無頓着になればよい。そして、誰にも頼らないこと。後は、時の流れに身をまかすだけ。来る者も去る者も、拒まず、でポーカーフェイスを装っていれば良い。さらに、自分の世界を持っていれば、自分が打ち込めるものを見つければ、疎外感から開放される。アニタはパーフォーマンスに磨きをかけ、私は映画にのめり込んでいった。
  1. 2006/09/03(日) 04:13:46|
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転校生

 このごろ、死期が近づいてきたのか、子どもの頃の出来事を思い出すことが多い。まぁ、人間は確実に死に向かって生きているのだから、単にヒマなだけで特別な意味はないのだろう。梅艶芳(アニタ・ムイ)の子ども時代のことを調べて書いているうちに、自分のことをつらつらと考えて、比較してしまった。私は彼女よりもずっと恵まれていたが、似たような経験があるので、なんとなく分かったような気になる。
 一番似ているのは、友達がいない寂しさを知っていることだろう。私は父の仕事の関係で北海道の中だけだが、3,4年ごとに引越しをしなければならなかった。小学校は三度変わって、中学は2回、高校だけは3年間同じだった。同じ市内や近郊への引越しならばそれほど問題はなかったと思うが、私の場合は、室蘭(むろらん)を振り出しに、札幌、釧路、函館、札幌・・・と引っ越した。北海道の中でも、たとえば、釧路と函館では気候も話す言葉も人々の気質も全く違う。これは、他の県でも同じだろうか? 
 室蘭から札幌へ引っ越したときは小学校の2年生のときで、教科書も揃っていないし、何も分からなくて惨めだった。ちゃんと一人で家に帰られたのが不思議なくらいだ。制服があった中学では、学校によって違うので、それができるまで、目立ってしょうがなかった。転校で一番嫌だったのは、見知らぬ教室に入って自己紹介をしなければならなかったことだ。私の苗字がちょっと変わっているし、それを言うことも漢字を説明することも、嫌だった。おまけに、変わっているのですぐに覚えられてしまう。
 家の周りや学校の様子が頭に入り、教科書が揃ってクラスメートに馴染むまで、数週間はかかったと思う。その間、私は「物珍しいお客さん」だった。休み時間はひとりだし、何かするとそれとなく観察されているのが分かる。大きなヘマをしないように緊張していた。自分がアウトサイダーだ、と言う感覚は抜けなかった。
 クラスにはある程度の派閥があり、それを見分けなければならない。いやに親しく馴れ馴れしい人は何か魂胆があるかもしれないし、何よりも主導権をとられないように気をつけなければいけない。もっとも注意を払うのは、クラスのボスは誰かと言うこと。・・・と言うようなことは、経験をつむたびに分かってきたことだった。
 遊びともだちは時間が経つにつれて何人かできたが、別れてしまうとそれっきりだった。お別れ会のときに「ずっと友だちよ」なんて言われても、人の心はうつろいやすい、と子どものときから実感していたのだった。
  1. 2006/09/02(土) 08:07:08|
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プロフィール

fanfunfuan

Author:fanfunfuan
 かつては、「スクリーン」や「ロードショー」などにハリウッド映画の記事を書いていたライター。あるときは[AT],あるときは[ブリジット・ファン]、あるときは[アニタ・ムイ・ファン]と、・・・つい、その場の思いつきでHNが増えてしまったが、これからはfanfunfuan。仁侠映画、林青霞、ジュリー・アンドリュース、山口百恵さんたちは私の「ファン殿堂入り」した人たち。現在は、亡き梅艶芳(アニタ・ムイ)さんに夢中。因みに、写真はアニタです。
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