今夜は試写で「The Depareted」を見てきた。このところ、ワーナー・ブラザーズの作品は、試写があっても公開前日という感じだったから、香港・日本から帰ってきて見るしかないと思っていた。ともかく、これは香港映画ファンならとっくにご存知の「インファナル・アフェア(原題「無間道」)」のハリウッド・リメイク映画だ。レオナルド・デカプリオが梁朝偉(トニー・レオン)の役で、マット・デーモンが劉達華(アンディ・ラウ)の役。だけど、これはジャック・ニコルソン(曾志偉/エリック・ツァンの役)の映画みたいというか、役柄が膨らんでいる。まぁ、そのために、脚本を書き直させたのだけど。当然ながら、素晴らしい演技。アカデミー賞候補になるだろう。
ストーリーの骨子はオリジナルに沿っているが、陳慧琳(ケリー・チャン)と鄭秀文(サミー・チェン)の役がひとつになっているとか、微妙にオリジナルと違っていてハリウッドっぽくなっている。試写にきていた大部分がオリジナルを見ていないので、ラスト近くの展開で息を呑む人たちが多かった。約2時間半の長さ。アメリカ映画らしくはっきりした結末だった。マーチン・スコセッシ監督作品。私は香港版のほうが面白いと思う。
- 2006/09/29(金) 17:05:37|
- 映画
-
-
| コメント:0
11月の初めにカリフォルニア州知事の選挙がある。私はアメリカの市民権を持っていないから、選挙権がない。権利があっても、あらかじめレジスターしないと投票ができない。
アメリカの選挙活動はテレビのCFで相手の弱点を宣伝するのが効果的のようだ。だから、もう、毎日、いろんなチャンネル、時間帯でそれを見る。私はカリフォルニア知事が俳優だったときに何度かインタビューしているが、良い印象はない。自己顕示欲の権化みたいな人。まぁ、スターと呼ばれる人にありがちなチヤホヤされるのが大好きなのは仕方がないとして、あの意地の悪さは・・・。たいした政策はないが、スタンド・プレーの得意な人と新聞に書かれても、次期選挙で再選されるのは確実だそうだ。また、自慢の種を与えてしまうようだ。
[梅艶芳故事(アニタ・ムイ・ストーリー 19]の続きを読む
- 2006/09/22(金) 16:36:48|
- 梅艶芳
-
-
| コメント:0
9月25日で、アニタが亡くなってから千日だそうだ。もうそんなになるのか・・・。頭では分かっていても、実感がない。元々、アニタは私にとって遠くに住んでいる人で、香港に住んでいるファンとは違って、テレビをつけたり、新聞や雑誌を見ればそこにいる、と言う人ではなかった。
クリシェだけど、アニタの肉代が存在しないだけで、彼女はフィルムやCDやDVDの中で生きている。
[梅艶芳故事(アニタ・ムイ・ストーリー) 18]の続きを読む
- 2006/09/21(木) 07:35:20|
- 梅艶芳
-
-
| コメント:3
やや一年ぶりにジムへ行った。メンバーになって、かれこれ15年になるが、ちゃんと利用したのは5年間くらいだろうか?週に2回くらい行く予定だったのに、年会費(日本に比べるとすごく安い)を払っているだけで、ほとんど行かずじまいだった。人工関節の手術をする前後だけ、まじめに通ったなぁ。それからは、なるべく行くようにしていたが、昨年の9月に追突されてから全く行ってなかった。ジムへ行くのが生活のルティーンになるといいのだが、何かでそれが崩れると、元に戻すことが難しい。
当時、北海道では珍しくプールのある学校(小学3・4年、中学・高校各3年間)へ行っていたのに、体育の時間に泳いだのは数えるほどだ。見学が多かった。だから泳げない。泳げたら、もっと足げくジムへ通ったと思う。私に許された唯一の運動が水泳なのだが、泳げないのでプールの中で歩くだけだ。深いところで120cmくらいあり、爪先立ちでやっと顔が出るかどうかで、時々大柄な人とすれ違うとモロに波をかぶってしまう。歩いていて溺れたりしたら屈辱的、と思って、まず、キッキング・ボードを使ってバタアシの練習を始めた。キックが悪いのか弱いのか、前へ進まない。それが、やっと何とか進むようになったが、そこまで、だ。息継ぎができないのだ。
水泳が得意な吉永小百合さんに聞いたら「私も初めはお腹がいっぱいになるくらいにお水を飲みました」と言われた。ウーン、ジムのプールの水は飲みたくない。これまた、水泳が好きな林青霞(ブリジット・リン)には「水が怖いのでなければ、ちょっとしたコツでできるようになる」と言われた。
札幌へ引き上げたら、家の近くに区のプールがあると言うので、しっかり通うことにしよう。是非、水泳のレッスンを受けて、いつかは泳げるようになりたいと思う。
- 2006/09/18(月) 14:46:21|
- スポーツ
-
-
| コメント:0
夏休みが終わって、そろそろ秋映画の季節になってきた。アカデミー賞ねらいの作品がどんどん公開される。2,3年前までは、毎晩のように試写があったものだが、今は一ヶ月に数本の試写があればよい方になった。同時に、それほど感激する映画に出会わなくなった。
今年は何本、良い映画に出会えるだろうか?
[第12回東京音楽祭 その2]の続きを読む
- 2006/09/17(日) 03:47:23|
- 梅艶芳
-
-
| コメント:0
9月も早、中旬になってしまった。あと20日余りで、香港へ行く。梅艶芳(アニタ・ムイ)のファンクラブによる誕生日のイベントがあるからだ。生身のアニタはいないのだけれども、アニタ・ファンが集まって、アニタをしのびつつ、彼女が残したもの、そのすばらしさを語り合える。
来年は叔父の法事と重なるので行けそうにないから、行けるときに万難を排して行く・・・と決めているのだ。
*****
トラックバックはご遠慮いただいていますが、このブログに対するコメントは歓迎します。
それから、いくさんのブログも併せて読んでほしいです。アニタのコンサートでのコメントやゲストのトークなどが日本語に訳されています。アニタ・ファン必読のブログです。
[第12回東京音楽祭 その1]の続きを読む
- 2006/09/14(木) 15:20:47|
- 梅艶芳
-
-
| コメント:0
ご無沙汰していた梅艶芳(アニタ・ムイ)ストーリーの続きをボツボツ書き始めようかな、という気になってきた。ちょっと、事情があって書こうか、やめようか迷ったのだが・・・。
再開するにあたって、ちょっと、断っておきたいことがある。
私はアニタの本を書くつもりでいるので、ここに書くことはその本の「下書き」だと思っていただきたい。えらそうな事を言うつもりはないが、色々と私なりに調べたり、インタビューしたことをまとめて書いているので、著作権は私にある。勝手に転載することは著作権法に違反するのをお忘れなく。
[プロになってからの梅艶芳(アニタ・ムイ)]の続きを読む
- 2006/09/08(金) 17:34:00|
- 梅艶芳
-
-
| コメント:0
9月の第一月曜日はレイバー・デイという休日。その翌日の今日から公共の学校の新学期が始まった。テレビの新番組も9月から始まるといったぐあいに、アメリカは9月が年度替りだ。
20年以上も前の今頃、妹の病名を知った。末期がんで余命2ヶ月。幸いにも、通っていたUCALはクォーター制(四学期制)だったので、新学期は10月だった。一学期だけなら休学が許されるとわかって、急いで札幌へ帰った。東京に住んでいた妹だが、治療のために札幌へ移動させたのだ。私はほとんど妹に付き添っていて病室に寝泊りしていた。がんは容赦なく妹の体内を蝕んでいった。宣告された2ヶ月が過ぎて、年が明け、UCLAの冬の学期が始まったので私はLAに戻らなければならなかった。それから、丁度、一ヵ月後に妹は帰らぬ人となった。もしものときは延命措置をしないでほしいと、母に伝えてあった。どんなに急いでも、LAから札幌へ着くのに2日間はかかる。機械で生かされていても妹は話すことができないのだから、早く苦痛から開放してあげるべきだと思ったのだ。
私はがん治療の当事者ではないが、それがどういうものであるのかつぶさに見てきた。だから、梅艶芳(アニタ・ムイ)が2003年の秋にどのような治療を受けたのか想像がつく。そういう治療を受けた人が、衣装をつけて高いヒールの靴を履いてステージを歩くなんて、信じられない。その上、歌を何曲も歌ってしまうなんて、人間業とは思えない。コンサートを8日間も開くなんて神業としか思えない。
アニタは「できる、と自信を持つ意志力だ」という。この意志力で数々の困難を乗り切ってきた。アニタ・ムイは超人なのだ。
同じ年回りだし、誕生日も3日間しか違わない「てんびん座」。火星のマイナス。ほんのちょっとだけ、アニタの心が分かる気がする。
- 2006/09/06(水) 09:17:36|
- むかし話
-
-
| コメント:0
自分がクラスメートと違う、というか、まわりから違う目で見られているというのは、敏感に感じるものだ。私は「よそ者」の上に、股間節が悪かったので過激な運動はできなかった。体育の時間は、本来ならば見学しなければいけなかったのだが、親に隠れてできる範囲で一緒にやっていた。さすがに運動会は見学していたが、遠足もなるべく行くようにしていた。同じ行動をとれないことは「差別」につながるのだ。
梅艶芳(アニタ・ムイ)は人前で歌ってお金を得る生活をしていたので、クラスメートから(彼らの親たちの入れ知恵があって)「モンスター」と思われていた。だから、彼女は一緒に遊んでもらえなかったのではなくて、避けられていた。私も、グループで楽しそうにしているところに近づくと、話題を変えられたり、これ見よがしに仲の良さを見せ付けられたりした。一番ショックだったのは、テスト前に風邪かなにかで休んでいて、わざと違うテストの範囲を教えられたことだった。
サバイバルの方法は、全てに無感覚になることだ。差別されていると意識するから傷つく。気がつかなければ、どうということはない。何事にも無頓着になればよい。そして、誰にも頼らないこと。後は、時の流れに身をまかすだけ。来る者も去る者も、拒まず、でポーカーフェイスを装っていれば良い。さらに、自分の世界を持っていれば、自分が打ち込めるものを見つければ、疎外感から開放される。アニタはパーフォーマンスに磨きをかけ、私は映画にのめり込んでいった。
- 2006/09/03(日) 04:13:46|
- むかし話
-
-
| コメント:2
このごろ、死期が近づいてきたのか、子どもの頃の出来事を思い出すことが多い。まぁ、人間は確実に死に向かって生きているのだから、単にヒマなだけで特別な意味はないのだろう。梅艶芳(アニタ・ムイ)の子ども時代のことを調べて書いているうちに、自分のことをつらつらと考えて、比較してしまった。私は彼女よりもずっと恵まれていたが、似たような経験があるので、なんとなく分かったような気になる。
一番似ているのは、友達がいない寂しさを知っていることだろう。私は父の仕事の関係で北海道の中だけだが、3,4年ごとに引越しをしなければならなかった。小学校は三度変わって、中学は2回、高校だけは3年間同じだった。同じ市内や近郊への引越しならばそれほど問題はなかったと思うが、私の場合は、室蘭(むろらん)を振り出しに、札幌、釧路、函館、札幌・・・と引っ越した。北海道の中でも、たとえば、釧路と函館では気候も話す言葉も人々の気質も全く違う。これは、他の県でも同じだろうか?
室蘭から札幌へ引っ越したときは小学校の2年生のときで、教科書も揃っていないし、何も分からなくて惨めだった。ちゃんと一人で家に帰られたのが不思議なくらいだ。制服があった中学では、学校によって違うので、それができるまで、目立ってしょうがなかった。転校で一番嫌だったのは、見知らぬ教室に入って自己紹介をしなければならなかったことだ。私の苗字がちょっと変わっているし、それを言うことも漢字を説明することも、嫌だった。おまけに、変わっているのですぐに覚えられてしまう。
家の周りや学校の様子が頭に入り、教科書が揃ってクラスメートに馴染むまで、数週間はかかったと思う。その間、私は「物珍しいお客さん」だった。休み時間はひとりだし、何かするとそれとなく観察されているのが分かる。大きなヘマをしないように緊張していた。自分がアウトサイダーだ、と言う感覚は抜けなかった。
クラスにはある程度の派閥があり、それを見分けなければならない。いやに親しく馴れ馴れしい人は何か魂胆があるかもしれないし、何よりも主導権をとられないように気をつけなければいけない。もっとも注意を払うのは、クラスのボスは誰かと言うこと。・・・と言うようなことは、経験をつむたびに分かってきたことだった。
遊びともだちは時間が経つにつれて何人かできたが、別れてしまうとそれっきりだった。お別れ会のときに「ずっと友だちよ」なんて言われても、人の心はうつろいやすい、と子どものときから実感していたのだった。
- 2006/09/02(土) 08:07:08|
- むかし話
-
-
| コメント:0