今日(30日)の夕方、LAへ戻ります。
その前に、ひとつだけ梅艶芳(アニタ・ムイ)関連のことを。先日見たテレビの番組(正確なタイトルはわからないが「(なんとか)波乱万丈」)で、ゲストのアグネス・チャンが、高校在学中に歌手でデビューをしてスターになったので、学校ではいじめられたし、先生の中にも嫌味たっぷりで差別する人がいた・・・、と話していた。やはり、70年代の香港人は芸能界というかエンターテイメント界にいる人をさげすむ傾向は強かったようだ。アグネスとアニタでは環境がやや異なるが、差別されたことには変わりがない。
彼女たちは確か、83年度の音楽賞番組で共演している。そうか、アグネスにアニタのことを聞けたらなぁ…って、無理だね。オウヤン・フィフィなら?これも、無理っぽい。もう、インタビューはあきらめるしかないかな?
- 2007/01/30(火) 10:52:12|
- 梅艶芳
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実は母が突然倒れ、ペースメーカーが必要と診断されて入院している。入院当時、脈拍が20台だった。幸いにも、手術の結果がよくてもう院内なら歩いて行けるようになった。母の場合は「心臓完全房室ブロック」という病名で心房から心室への信号が伝わらなくなったために、血液が体内に行き渡らなくなり、当然ながら頭にも血がいかなくなって貧血状態になって倒れたのだ。私が帰国しているときにこのようなことになって、不幸中の幸いだった。
家族の誰かが入院したりすると、御見舞いの人が来ることに気を使う。お見舞いは短時間にすますこと、病状などを根掘り葉掘り聞かないこと、うそでもいいから「思っていたより元気でよかった」とか言うこと…が最低のエチケットではなかろうか。特に、病名を本人に隠していることがあるかもしれないので、病気についての知識を病人の前で言わないことだ。今回の母の場合は外科的処置だからいいようなものの、妹のときは本当にお見舞いなんかしてほしくなかった。病人は話をするだけでも疲れるのだ。お見舞いに来て、説教をしていった人がいたことには驚いた。その人は妹がガンとは知らなかったにせよ、こんな人が会社の上司だった妹が哀れだった。
今回の母のことは天国にいる妹が助けてくれたようだ。
- 2007/01/24(水) 15:31:44|
- 日常
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唐突ですが、クロップ・アート(素材が穀物のアート、だと思う)での梅艶芳(アニタ・ムイ)のポートレートです。
http://www.cropart.com/ddavidst.dir/caxdav24Mui.htm
David Steinlichtという方の作品だそうです。知り合いから教えてもらいました。詳しいことは彼のHPに書いてあるそうですが、時間がないのでチェックはしていません。しかし、このアニタは2003年のファンクラブ・バースデイ・パーティのころのアニタです。カツラでわかりますね。(いくさんの指摘では1997年のアニタでは?ということです。衣装が黒だからその可能性が大きい)
で、ポートレイトの横にあるpreviousをクリックすると『白髪魔女傳』の林青霞(ブリジット・リン)になるところがミソです。って、知り合いはブリジットのファンだから、そちらのほうを教えてくれたのでした。
- 2007/01/17(水) 17:23:25|
- 梅艶芳
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今日は百恵ちゃんの誕生日だ。
ずっと以前に、ノースリッジ(ロサンゼルス近郊)地震があって、その翌年は阪神大地震があった。でも、百恵ちゃんファンにはそんなことよりも彼女のお誕生日として、この日を記憶していると思う。
ちょっと個人的な事情により、LAに帰るのが一週間延びてしまった。
- 2007/01/17(水) 16:45:27|
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妹の命日は2月8日だが、過日、私が札幌にいるうちに23回忌の法要を家族だけでした。お坊さんにお経を上げてもらうというだけのささやかなものだった。なんと、妹がなくなってから22年になる。妹はきっと天国で梅艶芳(アニタ・ムイ)のパフォーマンスを楽しんでいることと思う。天国でアニタは好きなように歌い、踊っているのではなかろうか。もう、切符の売れ行きとか、大衆にどのように受け入れられるかなどの心配はいらないのだから、心のままに歌っているはずだ。
遅刻魔のアニタは仕事に遅れてリハーサルができなかったりしたこともあったが、歌うことに関して「手抜き」はしなかった人だ。生前、ホテルのラウンジ・ショウのような、小さなステージにピアノとちょっとしたバンドを従えて、思いついた歌を心行くまで披露するということができたらよかったのになぁ、と思う。そのときはアット・ホーム的なムードで、入場料はもう千ドルでも一万ドルでもいい。
多分、そのような夢のショウを天国では気が向いたときにしているのではなかろうか。観客に夢や幸せを与える歌手が好きだった妹のことだから、かぶりつきでそれ楽しんでいるはずだ。
- 2007/01/13(土) 15:27:24|
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昨年の28日というか29日になって香港の宿に着きました。
29日は梅艶芳(アニタ・ムイ)ファンとともに行動することにして、夕方からダンスのレッスン(私は見学のみ)、みんなで食事のあと、アニタが亡くなった病院近くまで行き、その後、無人のアニタの家まで行きました。昨年は病室が開いていたので、ファンがその中に入れたのだそうです。今年は、あいにくと午前一時に患者がその部屋に入ったとかで、入られませんでした。といっても、私は単にファンについて行っただけだったので、病室に入ろうとしていることさえ知りませんでした。ラジオの追悼番組を聴きならが、アニタの冥福を祈りました。
30日はお昼に真善省堂へ行ってお参りをして、2時過ぎまで、ファンと一緒にお供物のお金を作りました。それから、星光大道(スター・アベユー)へいって、何とかというバンドがアニタの歌を歌ったり演奏するというので出かけましたが、ひどい出来で(どうもリハーサルだったような気がします)、4時ごろまでアニタの星型(手形もサインもないので何と呼んでいいのかわからない)のところでアニタをしのび、追悼会および展示の会場へ行きました。昨年まではアニタのコンサートをトリビュートしていましたが、今年は映画。結構珍しい写真もありました。追悼会は45分ほどで終わり、またもやスター・アベニューに戻って、そこで、何曲かアニタのうたを歌いました。近くで、バンドの演奏があって、リクエストに答えてくれたので、その演奏に合わせて歌ったのでした。通りがかりの人たちは、「あぁ、今日はアニタ・ムイの命日だ」と思い出したようで、言うなれば、そのくらいの反応しかなかったのです。でも、人だかりの中には観光客もいたので、アニタを知らしめる一端にはなったと思います。
31日はアニタ・ファンとカラオケでカウントダウン。外は物凄い人出でした。カラオケ中にちょっと外へ出て、「新報」というマイナーな新聞を買いにでたので、この人出のすごさがわかったのです。カラオケは朝の4時まで続きました。ファンはどこの国から来ても、思いは同じだと強く思いました。アニタの言葉や動きに反応したり、しぐさをまねしたり。この日ばかりは地下鉄が24時間営業していて帰りは楽でした。
元旦は、夕方から『男たちの挽歌3 アゲイン』の上映があったので、それまでは休んでいました。もう、体力が限界で、睡眠不足と疲れがどっとでて、更に夜風の寒さにさらされたことまであって、胃がむかつき熱まで出てしまいました。解熱剤を飲んで映画に行きましたが、画面はきれいなのに、フィルムがカットされていてちょっとがっかり。悲しいラストなので、泣いているファンがいました。
2日は休養日。3日、朝7時半に宿を出て、札幌の家には夜の9時半ごろに着きました。
以上、怒涛のようなファン行動でした。
- 2007/01/05(金) 17:53:49|
- 梅艶芳
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