今日はアメリカの独立記念日。でも、私はいつもと変わらぬ一日だった。つまり、一日中、どこにも出かけなかった。アメリカへ来たときは知り合いがいなかったから、みじめな一日だった。その後の数年は、友人の家やビーチなどに行ってBBQをしたり、夜は打ち上げ花火を見たりした。家族や友だちなどが集まって楽しそうにしているホリデーは苦手で、ラスベガスへ行ったりして家にいないようにしたこともある。最近は、一人にも慣れた。
*****************************************
さて、アニタ・ムイ(梅艶芳)ストーリーの続きだ。
アニタには子供時代がない。
手元にある資料によると、アニタが3、4歳の頃、おそらく1968年ごろに母は自宅を開放して華強(ワーキョン)藝術学院という音楽教室を開校する。一説には1968年に錦霞(カムハー)歌舞團を結成して、1974年に華強藝術学院ができたとあるが、順序から考えて、まずは学校を開き、それから歌舞グループを結成したと考えるのが妥当だと思う。あるいは、ほぼ同時に二つを設立したのかもしれない。表演者を養成するパフォーニング・スクールと彼らのマネージメントを同時に考えるなんて、今から思うとかなりの先端を行っていたように思うが、オペラ学院がある香港や中国ではそう珍しいことではなかったかもしれない。アニタはTVBテレビの「K−100」と言う番組などで子供の頃を振り返っている。錦霞歌舞團はモンコック(旺角)のビルの3階にあり、一家が越してしまってから火事になったそうだ。したがって、一般的にはこの錦霞歌舞團の方が知られている。
母は特に音楽の才能があったわけではないが、広東オペラ・スター、芳艶芬(フォン・イムファン)の大ファンで二人の娘に彼女にちなんだ名前をつけたほどだ。それに、母の親戚に広東オペラのつてがあったとも言われている。ともかく、何人かの先生を雇って黄梅調の歌や広東オペラなどを教えた。
姉のアンは授業を受けていたようだが、幼いアニタは隣室に押し込められていたのではなかろうか。すくなくとも、部屋には仕切りがあって、生徒と同じところにはいなかった。インタビューで「歌は(先生が教えているのを)盗み聞きして覚えた」とアニタが話しているからだ。教えられずとも、聞こえてくるメロディーを自然に覚えて、その歌詞の意味も分からずに歌えた。それを先生が聞いて、「これはいい」とアニタを連れて荔園(ライ・ユン)遊園地やお祭りの舞台などに立たせた。母もアニタに歌う才能があるならば、将来、工場で働いたり、レストランでディム・サム・カートを押すよりも良いだろうと、歌の先生に彼女を託した。
アニタはままごと遊びのような感覚で舞台に上がって「梅花静、桃花静、芬芳吐艷十分・・・」という広東小曲を歌ったそうだ。十分なおもちゃがあったわけでもない四歳半のアニタには、家の中にいるよりも外に出ることができて楽しかったに違いない。時には、「ステージに上がって歌ってもスピーカーの方が大きくて、観客には声はすれども姿は見えずと言うときがあった」そうだ。子ども心に観客からの拍手を受けるのは心地よかったに違いない。当時は、報酬を得るどころか、先生の給料、メイク・アップの化粧品代、衣装代、交通費を払っていた。つまり、「初めのうちは生活のために舞台に上がったわけではない」という事だ。間もなく、母は歌を教えもしないで娘を連れ歩いて舞台に立たせている先生の実態を知って、それならば自分の手で、というわけでアニタのマネージメントを見るようになった。
その頃から、アニタはアンとコンビを組むようになったのだろう。こうして、アニタは本格的に舞台に立つことで収入を得るようになる。報酬がどのくらいだったのか、アニタは全く知らない、という。間もなく、その収入は一家の支えとなる。幼い子どものアニタが大人と同じように歌って踊るので、拍手が大きかったという。アニタもステージは自分がコントロールできる小さな世界、と思ったそうだ。母がアニタの一周忌に出版した「親密愛人梅艶芳紀念特刊」の写真を見るとその当時がしのばれる。アニタよりも10歳以上も年上の二人の兄たちはどうしていたのかというと、見習い奉公に出ていたそうだ。記念本には、どこかのレストランのボーイの制服を着た長兄と一緒の写真がある。
(2006年7月4日)
- 2006/08/03(木) 08:35:48|
- 梅艶芳
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0