このところ、何かにつけて頭に浮かぶことが2,3ある。
ひとつは、映画祭で見た『父子』についての疑問だ。LAに戻ってきてから、日本滞在中はほとんど読めなかったいくつかのブログを読んだが、誰もこの映画の中で、少年が常に「阿BOY」と呼ばれていたことに触れていない。私はプレス用の試写で見たので、ティーチ・インのときに誰かが質問したのではないか、と期待したのだが。少年には名前があったはずで、エンド・クレジットでは阿BOYだけだったと記憶する。少年の友だちや隣のおばさんは彼の名前を読んでいたと思うのだが、私には聞き取れなかった。それよりも、少年の父も母も「阿BOY」としか呼ばないことが気になった。主人公の少年だけではなくて、彼が盗みに入る家の寝たきりの男の子も、その両親から「阿BOY」と呼ばれていた。マレーシアでは、自分たちの息子を単に「阿BOY」と呼ぶ習慣があるのだろうか?
自分の親からBOYとだけしか呼ばれないことは、あの少年に多大なる精神的な影響を与えたはずだ、と私は考えるが、映画はそれには触れていない。前にも書いたが、映画は執拗に少年の父のいい加減さや非道ぶりを描いているが、少年が何故父親をあそこまで慕うのかがわからない。母は少年を置いて他の男の元へ去って行くような女だから父の方がまだマシだと思ったのだろうか?
あんなに性根が腐ったダメ父が、何年後かに改心して、良き父・良き夫に変わったようなラストは唐突過ぎる。あれは少年が見たかった「まぼろし」なのか?しかも、少年は父に強いられて犯した罪を償った上に、自分が犯した過ちをも謝罪する立派な青年になって登場する。これは観客が見たかった「結末」なのか?
母の息子に対する希薄な愛情も信じられなかった。自分の幸せのために息子を置き去りにして平気なのか?少年の不幸を知りつつ探そうともしなかったなんて、ありえるのか?あの母がどうしようもないアバズレ女だったのなら納得もいくが、そのような描写はなかった。むしろ、少年のことは心配していたし、彼女の周りの女たちは同情して、彼女をかばってさえいる。だが、幸せな日々と引き換えに少年を抹消してしまったかに見える母の描写があるだけで、その後のことは触れていない。
そもそも、あの少年の存在は一体何だったのだろう?
監督の譚家明(パトリック・タム)は芸術的に満足のできる映画を撮れないから17年も待った、と言うようなことを言ったそうだが、あの少年は監督が今まで撮れなかった作品のメタフォだったのだろうか?
因みに映画祭でのティーチ・インの模様はこのリンクで。
http://www.janjan.jp/culture/0610/0610260517/1.php
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もうひとつ気にかかっていることは、英語を文字通り日本語に訳して理解する人がいることだ。例えば、『四大天王』はALIVEという「BOYS BAND」にまつわるモックメンタリー映画だが、彼らはいい大人で「少年バンド」じゃないじゃん、という人がいる。気持ちはわかるけど、これは文字通りには訳さないで、「男子バンド」くらいに考えればいいのだ。英語の四文字言葉も、あれは怒りや感情を表す言葉なので、日本語に訳してはいけない。もし、訳すなら、日本語ではこういうときにどんな言葉を使うのか考えて置き換えるしかない。
Oh my Godは驚きを表すフレーズだと知られているから、今や「おぉ、私の神よ」とは誰も訳さないだろう。だが、「Hi guys」といわれて、「私たちは女の子よ」と思うのは間違いだ。これは「ハイ、みんな」と言う意味だからだ。最近は磨き上げるというような意味で「ブラッシュ・アップ(brush up)」と書いている文をみかけるが、本来は「復習する」という意味だ。日本ではわりと良い意味で使う「ナイーブ」は「オバカ」と言う意味だし、「デリケート」も「虚弱だ」という意味で使われる。
偉そうなことをいえるに立場ではないが、何でも文字通りに訳すのは正しくない、と言いたいし、日本語での理解と英語そのものの意味では隔たりがあることもある、と言いたいだけだ。特に、とっくに意味が分かっているような簡単な単語からなるイディオムやフレーズに限って、間違って理解しまうのでご注意を。
- 2006/11/09(木) 05:08:43|
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